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勿来の関跡 ~福島県いわき市勿来町~ (2015年9月8日)
奥州三関のひとつ、勿来の関跡を訪れた。

勿来の関は律令時代に整備された官道、古代東海道に設置された。ちなみに奥州三関のあと2つは東山道(近畿から美濃→信濃→上野→下野→陸奥の各国府を結ぶ)の白河の関(福島県白河市)と日本海沿いを北上したの北陸道の鼠(念珠)ヶ関(山形県鶴岡市)だ。
付近は「勿来の関公園」として整備されており、関所跡とされるあたりには「奥州勿来関趾」の碑を挟んで関所門と源義家像が建っている。東海道の箱根関所跡や中山道の碓氷関所跡のように、関所跡というと関所門を連想するが、それは江戸時代の話であって、勿来の関が設置されていた時代に門はなかった。

門の傍らの案内碑をそのまま転記する。
 勿来関は、もと菊多(いわき市南部の古名)と呼ばれ今を去る千五百有余年前に設置されたといわれ、白川関、念珠関と並んで奥州三古関の一つとして名高い関所である。これを「勿来」すなわち「来るなかれ」と呼んだのは平安中期ごろからであり、北方の蝦夷の南下をせきとめるためであったと言われている。又平安初期の弘仁二年、いわき地方の駅路(官道)の廃止にともなう通行止めを監視する関とする説もある。
 平安時代も終わりに近い後三年の役のとき陸奥守源義家が、その平定のため奥州に下向する途中にここにさしかかる。
折しも盛りの山桜が春の山風に舞いながら路上に散りしいていた。行く春をおしむかのように、武将の鉄衣に舞いかかる桜の花にさすがの義家も今はただ余りの美しさに駒をとどめ、
 吹く風を 勿来の関と 思えども 道もせに散る 山桜かな
と詠じたのが、勅撰の千載和歌集に載せられ勿来関の名を今の世に伝えている。
いわき市

源義家歌碑(万葉仮名で記されている)
吹風遠那古曽能関登思獘登裳
      美遅毛勢耳散山櫻可難
吹く風を勿来の関と思えども
      道もせに散る山桜かな
(来る勿れ(なかれ)という勿来の関なのだから、吹く風も来ないでくれと思うのだが、道も塞ぐほどに山桜が散っていることよ。)

1927年(昭和2年)に福島民友新聞社が建立した「勿来関趾」の碑。

私は小学生の一時期、いわき市平に住んでおり、今回勿来の関を訪れた話を実家の母にしたところ、家族で見学に行ったことがあるそうだが、全く記憶にない。当時は石碑がひとつぽつんと建っていただけだそうだ。おそらくこの碑のことだろう。
勿来関趾の碑の左脇には「関東の宮」という古びた祠があった。関東と奥州の国境の守り神としてまつられたお宮だそうだ。

あいにくの雨模様で急ぎ足の見学だったためか、うっかり見落としてしまったが、帰宅後インターネットで碑の右脇には「奥州の宮」があることを知った。
奈良時代から平安時代初期においては国境に男女二社を祀る習わしがあり、2つの祠はそれに該当するのだろうか。

詩歌の古道
関所跡の入口(関所門)の先は「詩歌の古道」として石畳が敷かれ、道の両側に歌碑が建っている。
和泉式部

なこそとは 誰かは云いし いはねとも
          心にすうる 関とこそみれ
源師賢

東路は なこその関もあるものを
          いかでか春の 越えて来つらん
斎藤茂吉

みちのくの 勿来へ入らむ 山がひに
          梅干ふふむ あれとあがつま
他に、小野小町など全部で18の勿来の関を詠んだ歌碑があるが、おそらく多くは実際には現地を訪れず、遥か遠方から勿来の関を思って詠ったものであろう。

ところで・・・実は勿来関の所在地ははっきりしていない。冒頭で紹介した案内碑にあるとおり、この地の古名は菊多といい、「菊多の関」は存在していたが「なこその関」という名称ではなかったという。

そもそも「なこその関」という呼称自体、平安時代の和歌や文学作品には登場するものの、古代の史料には今のところ見当たらないという。「勿来」すなわち「来る勿れ」という「さもありなん」名前がいつしか独り歩きし出し、いつしか歌枕になったということなのだろうか。

Wikipediaによると平安時代から近代までに「勿来の関」を詠んだ歌は125あるという。それを全部読んでみたら、次のような歌があった。

 あふくまを いつれとひとに といつれは なこそのせきの あなたなりけり

阿武隈は勿来の関公園(敢えてこう記す)の西北に位置する。よみ人知らずのこの歌は『夫木和歌抄』という鎌倉時代の歌集に収められているから、少なくとも鎌倉時代には「勿来の関=菊多の関」という捉え方がされていたのではないだろうか。

「菊多の関=勿来の関」説を堅固なものにしたのは江戸時代の磐城平藩で、源義家の歌にあやかり桜を植樹するなどして史跡整備をした。17世紀半ばに常陸国神岡宿と陸奥国関田宿を最短で結ぶ切通しが貫通し、「奈古曾関切通し」と名付けられた(『磐城風土記』)。それが史書上でこの地周辺に「なこそ」の名が現れた最初らしい。ちなみに現在のいわき市勿来町の名称は意外に新しく、1897年(明治30)に現在のJR常磐線「勿来駅」が開設され、1925年(大正14)に窪田村が町制施行する際に駅名にちなんで「勿来町」が成立した。

実は勿来の関は別のところだったという説がある。その場所は宮城県利府町森郷字名古曽。そこに「惣(そう)の関」という古関があり、近くを名古曽川が流れている。陸奥国府・多賀城の北に位置するその関は中央政府からすれば北の防衛拠点、まさに「来る勿れ」であった。いわきの勿来関の案内碑にもあるように平安時代初期に古代東海道が廃止されたとすると、源義家が通ったのは白河関がある東山道で、義家が歌に詠んだ「勿来関」は利府の「惣の関」ということになる。

情緒的な考えかもしれないが、「勿来の関」は都人たちの頭の中の「幻の関」であって、律令体制成立から平安初期までの「勿来の関」は菊多の関、その後平安後期までの「勿来の関」は惣の関だったのではないだろうか。

いまでこそ国道6号線平潟トンネルによってあっという間に茨城県から福島県に入ることができるが、近代に至るまで陸前浜街道の常陸国と陸奥国の国境は難所であった。海岸は断崖絶壁でそれが壁のようにそのまま山地となって西に延びている。江戸時代には前述した勿来関切通しと海岸寄りの平潟切通しでつないでいた。戊辰戦争の際には海路から平潟に上陸した新政府軍と奥羽越列藩同盟がこの地で戦った(磐城の戦い)。列藩同盟側にとってはまさしく「来る勿れ」の地であったに違いない。

白河の関は発掘調査により場所が特定されたが、勿来の関の発掘調査は行われていない。調査によって存在が証明されるかもしれないし、ひょっとしたら何も出てこないかもしれない。しかし、そんな野暮なことはせず、いにしえの人々と共に、大和が「蝦夷よ、来る勿れ」、蝦夷が「大和よ、来る勿れ」と祈った地に思いをはせてはどうだろうか。


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