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白井宿 〜群馬県渋川市〜 (2007年1月8日)
草津からの帰り道、国道17号線(鯉沢バイ
パス)沿いの道の駅「こもち」に立ち寄りまし
た。遅い昼食をとるために入った食堂の窓
から見えた「白井宿」の看板が気になり、食
後にぶらりとしてみました。

左の写真は白井宿の北の入口。交通の激し
い新17号線から道を一本入ったところに、
こんな所があったとは・・・。

どこまで続いているのでしょう。道の真ん中を流れる水路に導かれるように歩いていると、
やがて手押し車を杖代わりにゆっくりと歩いているお年寄りを追い抜きました。
 ・・もし。

「もし」と声をかけられたのは初めて。思わず
「それがしでござりまするか」と応えそうになり
ました。

 ・・お時間がおありならこの地の説明をしますが。
  お急ぎですか?


スキー帰りの車で混む前に関越道を抜けた
かったのですが、歴史、特に旧街道や宿場
に興味があるので、これから千葉に帰らなけ
ればならないことをお断りしたうえで少しだけ
お願いすることにしました。手押し車の中には
旧子持村教育委員会が作ったパンフレットが
たくさん入っていて、どうやらボランティアで町
の案内をなさっている方のようです。あとでお
年を聞いたのですが87歳だそうです。
以下はその説明とパンフレットを元にレポートします。

「白井宿」という呼称だが、厳密な意味での
宿場町ではない。
古文書には「白衣」の記述も見られるが(この
地の領主の奥方が白い衣をまとっていたこと
に由来するとか)、井戸への羨望から「井」の
字を当てるようになったという。


15世紀中頃、利根川と吾妻川の合流地点が
作り出す河岸段丘上に白井城が構築された。
西側は30mほどの断崖になっており、地形を
利用した天然の要塞であった。 城主は関東
管領上杉氏の配下である白井長尾氏。築城
の名人である太田道潅の入城もあり、 道潅
考案と伝わる集兵所も残る。

城の東側の丘陵下には徴兵を目的として町
人・農民が集められ、城下町として発展。今
日の町の原形となった。
白井堰(しろいぜき)
いかにも「宿場町」らしい景観を作っているのがこの
白井堰。のちに町の生活用水路となったものの、代
官の命で作られた当初は雨水の排水溝で、しかも
細長い町並みを利用して馬場にされてしまった。町
の端から端までは約1km。ぐるりと2回りするとおよ
そ一里となるため馬場にはうってつけというわけ。通
行人は馬が走ってくると反対側の道に移動し、住民
は道ならしに追われる時期もあったという。
昭和22年に農業用水路となり、現在は群馬用水が
流れている。
つるべ井戸
約1qの間に8つの井戸がある。城下町時代には住民
の井戸掘りが禁じられ、数百メートル東方を流れる利
根川まで水を汲みに行かなければならず、井戸を持つ
ことは住民の悲願だった。代官統治となり井戸掘りが
許されたものの、浅く掘るとガスが出、水脈までは3〜
4丈(11〜15m)の深さまで掘らなければならなかった。
古くは江戸初期(1624)に掘られた「薬師の井戸」から
昭和4年(1929)に掘られた「宮本町の井戸」まで、8つ
の井戸は枯れることなく現役で利用されている。

薬師井鐘楼
内部はタンクになっていてポンプ
アップされた井戸水が町内の各
戸に給水されている。


戦国時代を経て次々と城主が変わった後、
江戸時代初期に白井城は廃城となり、岡上
(おかのぼり)代官の治めるところとなった。代
官は南北に細長い町の形を利用し、短冊形
の町割りをした。町の北端に木戸を設けて
道を開き沼田方面と連絡すると、三国街道、
草津街道にも接続する交通の要衝となり、
六斉市が開かれる市場町として賑わった。
多くの旅人が往来し、町並みから「宿」とも呼
ばれ、これが本陣・人馬継立といった宿場機
能を持たないこの町が「白井宿」といわれる
所以である。

明治時代になって1qほど上流に吾妻橋が
かかり清水越往還(しみずごえおうかん・現在の国
道17号線)
のルートから外れると、市場町は急
速に衰退し、農業を主体とした集落に変容を
余儀なくされた。
明治32年の大火により古い家屋は少ないも
のの、こうして風情のある道は残された。以
前は堰を境界にして両向かいの家が自分の
庭のように利用し、梅の木を植えていたそう
だが、美観を考えて20年ほど前に八重桜を
中心とする桜の木に植え替えたという。毎年
4月の最終日曜日には盛大に祭りが行われ、
武者行列が練り歩く。
北向地蔵尊石堂
建立は江戸中期(1746)。町の木戸が北にあるため
北向に安置されている。手前にある手洗石(左)と
灯籠(右)は男神・女神の双対になっている。

地神塔
「地神(じしん)」と書かれている。
建立は1828年。戸倉村(利根郡
片品村)出身の書家・藤賢和(ふ
じけんな)の書。笹の葉を束ねて
作った筆で書かれ、「賢和の笹
字」といわれている。

この他にも井戸を掘ったら赤蛙が出てきたなど興味深い話をたくさん伺いました。城下町時代に
水汲みで苦労したことや町が馬場にされてしまい道ならしで忙しかったこと、さらには旅の書家に
笹の筆で「地神」と書いてもらったことなどを、あたかもご自身がその場に居合わせたかのように
語られるので思わず聞き入ってしまいました。公民館でボランティアで書道を教えておられるとの
ことで、「笹字」から話は書の講釈、漢字の成り立ちにまで拡大し、「私たちはそろそろ・・・」とおい
とました時は1時間半が経過。陽もかなり傾いていました。熱く語っていただいたのですが、やは
り寒い。北風は肌を刺し、なにより座っていた石のベンチの冷たいこと。おじいさんもさぞかし体が
冷えたことでしょう。どうもありがとうございました。

冷凍マグロ状態になった我々は、もう渋滞は覚悟し、予定にはなかった「白井温泉こもちの湯」に
体を温めに行きました。

【追記】 2008年4月26日の夕暮れ時、立ち寄ってみたら
八重桜が満開でした。




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