川中島古戦場 〜長野市〜 (2004年8月20日) |
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ここ八幡原は武田軍と上杉軍が激突した
川中島の合戦(第四回)で信玄が本陣を
置いたところで、八幡社があります。 |
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信玄が本陣を張った際に
築いた土塁も残っています。 |
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信玄・謙信一騎打ちの像 |
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永禄4年(1561)9月9日、対陣して半月におよぶにらみ合いの末、業を煮やした武田
信玄は軍師・山本勘助の策「啄木鳥(きつつき)戦法」をとった。軍を二隊に分け、一隊を
謙信本陣の妻女山に夜襲させ上杉軍が山を下りてきたところを信玄率いる本隊が待
ち構えて捕捉殲滅しようというのだ。
しかし、八幡原で待ち構えていた武田本隊が濃霧の切れ間に見たものは、策を見破り
夜のうちに全軍山を下りて準備万端の上杉軍であった。
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不意をつかれた甲軍は大狼狽。鶴翼に陣
を立て直し防戦するが、上杉軍の車懸の
陣による猛攻で総崩れ寸前となった。
そんな中、兜の上を白妙の練絹で行人包
みした騎馬武者が太刀を振りかざして、信
玄の旗本に襲いかかってきた。越軍の大
将・上杉謙信であった。 |
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諏訪法性の兜をかぶり、床几に泰然と腰
を下ろして戦況を見守っていた信玄は、
突然のことに太刀を抜く間もなく、軍配で
これを受ける。太刀を受けること数回、あ
わてて駆けつけた家来が長槍で謙信を
突いたが外れて馬にあたる。馬は謙信を
乗せたまま狂ったように走り去った。 |
この直後、妻女山夜襲が空振りに終わった別働隊がようやく川中島に到着すると、形
勢は一気に逆転。今一歩押し切れなかった越軍は崩れて敗走し、甲軍は勝どきをあげ
る。最終的には川中島を占領した武田方の勝ちであったが、合戦自体は五分の引き分
けか。 |
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信玄贔屓なものでついつい熱く語ってしま
い、失礼しました。
謙信三の太刀で信玄は肩に傷を負い、後
で軍配を見ると刀の跡が七箇所あったとい
う「三太刀七太刀乃跡」の碑が、両雄の
一騎打ちを伝えます。 |
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合戦の後、武田方は戦死者6千人余の
遺体を敵味方の別なく、手厚く葬った。
それがこの首塚。
これに感激した謙信は、後年甲斐が駿
河・今川に塩止めされた際に塩を送って
恩に報いたという。
真偽はどうあれ、ちょっといい話です。 |
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